【不機嫌な人ほど容易に周囲の人を支配する】ピカソは本当に偉いのか?

ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書) [ 西岡文彦 ]

 

本の内容は美術というものの捉えられ方の変遷、
ピカソが生きた時代、ピカソの人心掌握のうまさ
『美術』というものの用途の変化など、
多岐に渡っていて、非常に興味深いものでした。

ただ、絵がうまいからと言って絵が売れる訳ではなく、
その他のことにも精通していたからこそ、
ピカソは自分の絵の価値を高めることができたのですね。

 

そして、教会や貴族の家を飾るためのものだった絵が、
美術館という生活を切り離された場所に置かれるものへと変化した際に、
美術の価値もそれとともに変わって行ったのですね。

 

しかし、そういう風に絵のことを書いてある部分よりも
もっと心に残ったのはこの部分です。
ピカソは不機嫌さを隠さず感情をあらわにする人だったようですが、
知ってか知らずかそれも人心を操るために一役買っていたようです。

不思議なことに、多くの人は、感情をあらわにする人物と対面すると、そのあらわな感情の従者と化してしまう傾向があります。人間には底抜けに善良なところがあるらしく、目の前の人の感情に責任を取らずにはいられない心理が働くからです。

 

確かにいい人が感情をあらわにしている人に
おろおろしているのを見ることが多い気がします。

 

しかし、もともと人の不機嫌や機嫌は、本人の都合で決まっている訳ですから、その機嫌をとるために第三者が取る行動が、一貫したものになるはずがありません。機嫌をとることが功を奏する場合もあれば、その逆の場合もあるわけです。おかげで、機嫌をとる側の人間は、自分の相手への働きかけと相手の起源との因果関係がまったくわからない立場におかれてしまいます。  

 

そうして、自分が責任を取れない相手の不機嫌さというものに翻弄されて、
相手の従者のようになってしまうとのことなのです。

 

今まで、それこそ小学生の頃から、どうしてそういう感情をあらわにする人がその場を支配することがあるのだろう?という疑問があったのですが、これを読むことでなるほど、と思えました。

 

こういう事を理解していると、ある程度は機嫌の悪い人にどうしたの?と声をかけることくらいは するにしても、それ以上は「どうやら機嫌が悪いみたいだな」という認識をするくらいでよくて、自分まで気にすることはないな、と思えますね。

 

洗脳に関してもそうだけど、『知る』ということは、
色んなそういう感情のマジックにかかるのを防ぐ役割もあるなと思いました。

 

 

しかし、ピカソが才能豊かな人であったことは間違いないですが、
色々知ってみると、人心を操ることにも長けた魔王のようでもあります。
そして、芸術家はそういうものであるという世間の先入観によってそれが許されているという事実もあるのだろうなとそんなことを思いました。